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bozen siegesplatz monument

思いを馳せる場所


ホロコースト犠牲者を追悼する記念日

2019 127

ボルツァーノ観光局では、2018年ホロコーストメモリアルデーに、ゆかりのある場所にて開催される観光ガイド付きツアーに参加し、市内に点在する史跡にまつわる歴史の知識を深めることを提案しています。

観光ガイドによる案内は、イタリア語もしくはドイツ語で行われます。

詳細は、ボルツァーノ観光局まで。 tel. +39 0471 307000; info@bolzano-bozen.it.


ボルツァーノ観光局が、町に点在する史跡にまつわる歴史と歴史上の人物をご紹介します。

マンリーノ・ロンゴンとジャンアントニオ・マンチ Mario Longon - Giannantonio Manci

マンリーノ・ロンゴン (1911年12月20日パドヴァ - 1944年12月31日ボルツァーノ)

ボルツァーノの工業地区にあるマグネシウムとマグネシウム合金会社の行政上の責任者で、市の国民解放委員会(以下CLNと称する)、アルト・アディジェ県においてナチズム解放運動を指揮する目的で作られた地下組織の代表でした。ロンゴンは、国民解放委員会(CLN)の行動党を代表者として1944年12月15日に職場にて逮捕され、二週間の拘束、尋問後、独房2号室にて殺害されました。1945年に同盟国に承認され、 軍の第4師団司令部庁舎に 石碑が置かれました。ボルツァーノのヴィットリア広場からディアツ通りに入る道とロエン通りにある小学校は、マンリーノ・ロンゴンの名前に因んで、命名されました。

 

強制収容所 Lager

ボルツァーノでのナチス通過収容所、もしくは、強制収容所は、田舎風の家が立ち並ぶ労働者地区の端、現在のレジア通り(80番地)にありました。今日では、この道は街の主要道路の一つです。1944年夏から1945年5月3日まで使用されていました。数カ月の使用期間内に何千人もの民間人が収容されました。

逮捕の理由は、主に政治的なものでしたが、人質としてとられた家族や人種的理由(ユダヤ人とロマ民族)から迫害された人々も多くいました。北部・中部イタリアの各州とプレアルプスの全ての占領地域からの移送者、男性、女性、子供までもが、識別番号とカテゴリーに従って分類された色付きの三角形のバッチを付けさせられました。赤色は政治犯、黄色はユダヤ人、緑色は人質としての家族でした。ボルツァーノの強制収容所への移送者の正確な数は不明ですが、資料や証言によると約11,000人が収容されました。証言によると、この強制収容所に収容された全ての移送者が記録されたわけではなかったと分かっている為、恐らく、移送者の総数はより多かった可能性が非常に高いです。強制収容所の司令官は、ナチス親衛隊の中尉カール・フリードリヒ・ティト(1911—2001)で、副司令官は、ナチス親衛隊の准尉ハンス・ハーゲ(1905—1998)でした。

ボルツァーノの強制収容所で、今現在、唯一残っているものは、手作業によるオリジナルの外周壁のみで、2003年に歴史的重要規制対象と定められました。強制収容所や外周壁が建てられていた地域は、個人の所有であった為、70年代には木造のバラックの建物や塀は建っておらず、複数の建造物が集合して建てられていました。2004年ボルツァーノ市は、外周壁の外側を改修し、歴史的建造物の価値を明らかにしました。強制収容所跡近くに建つ、イタリア語が母語の子供が通う「ガリバー小学校」の前には、 強制収容所の歴史を説明した6つのパネルが置かれています。強制収容所と隣接して建っていた強制労働作業場の跡地には、幼稚園が建っています。2005年イタリアパルチザン協会は、外周壁の外側、別の面、北側を改修しましたが、塀の修復作業は完了していません。ボルツァーノ市において、改修工事は引き続き行われる予定です。

 

ヴィルゴロのトンネル、強制労働 Galleria del Virgolo

労働はボルツァーノの 強制収容所の被収容者にとって強制的なものでした。ヴィルゴロのトンネルは、強制労働を強いられた多く場所の一つです。このトンネルは、数百人も被収容者が1944年の冬から1945年の春まで働かされていた為、シンボル的な場所として選ばれました。1944年の秋、ヴィルゴロのトンネルにフェッラーラよりイタリア機械工業(IMI)の機械を移動させ、軍事目的でボールベアリングを生産していました。ここは、県内に点在する数多くの場所にてボルツァーノ強制収容所に収容された男女が強制労働させられた、記憶するべき象徴的な場所とされました。最初の輸送は1944年8月5日に始まり、最後の輸送は1945年3月22日でした。13回の輸送の目的地はマウトハウゼン強制収容所(5回)フロッセンビュルク強制収容所(3回)ダッハウ強制収容所(2回)ラーフェンスブリュック強制収容所(2回)アウシュビッツ強制収容所(1回)です。

 

パチノッティ通りのホームと交通網 Binario Via Pacinotti

ボルツァーノの強制収容所の基本的な役割は、何千人ものイタリア市民をアルプスの向こうのナチスの収容所に送ることでした。通過収容所はこの目的のために建設され、ボルツァーノを始めフォッソリ・ディ・カルピ(モデナ)、ボルゴ・サン・ダルマッツォ(クーネオ)そしてトリエステに設置されました。トリエステは絶滅収容所でもありました。集められた証言からパチノッティ通りのホームより、アルプスの向こうにあるナチスの収容所へ向けての13回の輸送の大部分が出発しました。輸送列車にはボルツァーノ収容所に連行された多くの男女が乗せられていました。最初の輸送は1944年8月5日に始まり、最後の輸送は1945年3月22日でした。

13回の輸送の目的地はマウトハウゼン強制収容所(5回)フロッセンビュルク強制収容所(3回)ダッハウ強制収容所(2回)ラーフェンスブリュック強制収容所(2回)アウシュビッツ強制収容所(1回)です。

下の方にある石碑は、トレンティーノ県のCLNの代表だったジャンアントニオ・マンチ(1901年12月14日トレント- 1944年7月6日ボルツァーノ)に捧げられたものです。1944年 6 月28日にトレンティーノ県バッソ・サルカにてボルツァーノの秘密警察に捕らえられ、トレンティーノ県におけるレジスタンス活動は終止符が打たれました。マンチ伯は、トレントとボルツァーノにてこの組織を指揮していました。尋問中に、同志を裏切らない為に(警察本部で諜報部)3階の窓から投身自殺をしたようです。石碑は、1993年軍の第4師山岳師団司令部庁舎に建てられました。マンチとロンゴンは、武勲をたたえられ、軍から黄金勲章を授与されました。

 

強制収容所の記憶 聖ピオ10世教会 Chiesa di S. Pio X

レジア通りとピアチェンツァ通りに面した聖ピオ10世教会にはボルツァーノ強制収容所の記憶を記す、時期の異なる3つの記念碑があります。記憶を残すべき場所や出来事から離れたこれらの記念碑の役割を理解するのは骨が折れますが、脈絡から外されたこれらの記念碑の存在が、記憶と歴史のある場所を結ぶ重要性を表しています。 最初の記念碑はピアチェンツァ通り沿いの教会の横にある、「殉教者たちの女王である聖母マリア」に捧げた小礼拝堂です。工業地区の主任司祭であったダニエレ・ロンギ神父の働きによって1955年に設置されました。ロンギ神父は CLN(国民解放委員会)の一員であったために1944年12月に逮捕され、ボルツァーノ強制収容所に連行されました。はっきりと確認できる献辞を記された、強制収容所の歴史に捧げられた最初の記念碑です。レジア通り沿いの教会前の芝生には碑文を刻まれた石碑と像があります。班岩の石碑は1965年にボルツァーノのグイド・ペリッツァーリのプロジェクトで、レジスタンス20周年記念委員会によって選ばれ実現されました。芝生に大きな基部が設置され、レジア通り80番地の住宅の前に今も残っています。

碑文の下には強制収容所の概略された平面図の跡が見られ、セメントの小さなひし形には「1945〜1965年」と記されていました。1985年には、この石碑に手が加えられ、収容所の平面図を削り取ってできたスペースには、解放40周年のボルツァーノ市の献辞で埋められました。セメントのひし形が取り払われた代わりに、石碑の上部に「1943〜1945年」と刻まれました。この時に石碑をピオ10世教会の前に移設し芝生に埋めることが決まりました。近くにある像は石碑を完成するために考えられ、1985年に設置されました。男性像と女性像が手を取り合いながら、彼らの悲劇の苦しみを空に向かって叫んでいます。地元の彫刻家クラウディオ・トレヴィの作品です。

 

ジョセフ・マイヤー・ヌッサーへの献辞を記したプレート Josef Mayr Nusser

2010年に市庁舎の裏手、ジョセフ・マイヤー・ヌッサーの名前を付けた通りに、彼の勇敢な言葉を記したプレートが掲示されました。ジョセフ・マイヤー・ヌッサー (1945年2月24日ボルツァーノ-1945年2月24日エアランゲン)は1934年にトレント司教区のドイツ語部門のカトリック信徒団体の責任者となりました。 当時、トレント司教区にボルツァーノも含まれていました。彼は非合法に反ファシズム、反ナチズムの運動に参加します。この運動は1939年に設立された 「アンドレアス ホーファー同盟」と呼ばれるもので、移民することを受け入れた大多数の人々に反して、第三帝国には移らずアルト・アディジェ県に残ることを決め、強制的なイタリア化に抵抗したドイツ語とラディン語を母語とする南チロル人「Dableiber(ここに残る者という意味) によって構成されていました。1944年、軍の教練の終わりにジョセフ・マイヤー・ヌッサーは、西プロイセン(現在はポーランド)のケーニッツの兵舎にあるナチス親衛隊に呼びだされました。首尾一貫した良心により、ヒットラーに忠誠を誓うことを拒否したためです。裁判により国家反逆罪の判決を受けて、ダッハウ強制収容所に連行されることになりました。しかし、到着する前にエアランゲンにて、バイエルンの強制収容所に送られる貨物列車の中で衰弱死しました。彼の遺体は1958年に移送され、今はソプラ・ボルツァーノにあるステッラ・ディ・レノンのサン・ジュゼッペ教会に眠っています。現時点で彼の列福審査が行われています。

テーマに沿ったコース: https://www.josef-mayr-nusser.it/it/sentiero-tematico/ (ドイツ語、イタリア語)

 

建築施設

 

ヴィクトリア広場の記念碑 Monumento alla Vittoria

1917年夏にオーストリア帝国軍(Kaiserjäger)の記念碑が建てられる計画が進みましたが、第一次世界大戦の終わりに計画は放棄されました。同じ場所に1926年2月、ファシスト政権がチェーザレ・バッティスティ、ダミアーノ・キエーザ、ファヴィオ・フィルツィの栄誉を讃える記念碑を建てることを決めました。彼らはイッレデンティズモ(未回復地併合主義)に殉じた人物です。ハプスブルク帝国内のイタリア語を話す市民で、最初の世界大戦中、自ら進んでイタリア側で戦う決めた人々です。オーストリアによって逮捕され反逆罪で死刑判決を受けました。建築家マルチェッロ・ピアチェンティーニの計画による記念碑は、着工から2年後の1928年に、当時のイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によって落成式が行われました。記念碑は古代ローマの凱旋門に倣い、ファスケス(古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルが捧げもった権威の印、ファシズムのシンボル)の形をした14本の柱が支えています。上部の浮き彫りはアルトゥーロ・ダッツィの作品で、勝利の女神を表し、「Hic patriae fines siste signa. Hinc ceteros excoluimus lingua legibus artibus(ここに故国の国境がある 旗を掲げよ ここからは他の言葉と法律と芸術を教育するのだ)」とラテン語で書かれた碑文の上に建っています。内部にはリベロ・アンドレオッティ作「復活したキリスト」像が祭壇の上にあり、横にはミラノの彫刻家アドルフォ・ヴィルトゥ作「バッティスティ、フィルツィ、キエーザの胸像」が置かれています。記念碑の下には地下祭室があって、ヴェネツィアの画家グイード・カドリンによってフレスコ画装飾がなされています。ここに見られる女性たちの図像は歴史の番人、勝利の番人を意味しています。

 

アルマンド・ディアツ通りの住居建築群 via Armando Diaz

軍司令部のごく近い位置、ディアツ通り(7〜31番地)に1920年代中頃から「ドゥルーゾ地区」の最初の住宅地区が発生しました。現在のバッティスティ地区です。国と市の職員協同組合の委託による住宅施設で、建築家クレメンス・ホルツマイスターとルイス・トレンカーによって設計されました。後者はアルピニストまた映画監督としても有名です。アルマンド・ディアツ通りに面した4階建の施設は、1920年代のウィーンの典型的な社会階層建築を思い出させます。住宅区の内側には(レジナルド・ジュリアーニ通りからよく見えます)特徴的な小さな庭付きの二階建て家屋の列があります。これは「庭の町」と呼ばれるモデルから来ています。